“松浦武四郎”って何した人?松浦武四郎の功績を全てご紹介します!①生い立ち

今回は、過去記事の中で軽く触れた北海道の偉人第一位“松浦武四郎氏について詳しくご紹介したいと思います!

武四郎氏の身長は148cmくらいだったと言われていますが、小柄だった武四郎氏が足で稼いだ情報と内に秘めた思いは、体とは裏腹に膨大で壮大でした。

この春から北海道で先行放送が予定されている北海道150年記念ドラマ『永遠のニパ』〜北海道と名付けた男 松浦武四郎〜は、松本潤さん(主演)と深田恭子さんなどが出演するということで、若い世代の方たちにも北海道の歴史を知って貰える絶好の機会になるのではないでしょうか。

この記事で少しでも予備知識を蓄えるお手伝いが出来ればと思います。知識があると無いとではドラマの楽しさが違ってきますのでね!

かくいう私自身も、既に若い世代ではないにしろ、北海道の歴史をあまり知らずに生きてきました。

図書館から借りてきた書籍の数々には、松浦氏の生い立ちから始まり、松浦氏が自分で赴いて調べた北海道の地形や、アイヌ民族に教わったアイヌの文化、アイヌ民族が和人から受けた不当な扱いに対する松浦氏の思い、それに物申す松浦氏へ掛けられた圧力のことなどが記されていました。

なぜ松浦氏が私たちにあまり馴染みがないのか、その辺のことも今回なんとなくわかってきました。

自分が住んでいる土地について知ることは、自分を知ることでもあります。

私が仕入れた情報をわかりやすく、でも余すところなくご紹介していきたいと思います。

“松浦武四郎”誕生

松浦武四郎氏は、文化15年(同年4月22日より元号が変わり“文政元年”に。西暦は1818年)2月6日、伊勢の国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江)にて父松浦桂介時春(けいすけ ときはる)と母登宇(とう)の四男二女の6番目として生まれました。

寅年生まれの寅の刻(午前4時)に誕生したそうで、虎にちなんで虎と相性の良い組合せと言われている“竹”と、四男の“四”を付けて“四郎”と命名されます。“四郎”と名乗るのは成人になってからのことです。

虎は広い縄張りを持ち、その範囲はメスで20㎢ほど、オスだとその3倍とも4倍とも言われています。「虎は千里の藪に住む」ということわざがありますが、寅年・寅の刻生まれの竹四郎氏も、虎のように広い範囲で活躍する一人になっていくのですが、その辺はこのあと詳しく解説していきます。

四郎”が幼名、成人してからの正式な名前は『弘(ひろむ・ひろし)』で、通称が“四郎”、更に“子重”(しちょう)という※字名(あざな)も持っていたそうですが、字名はほとんど使われていなかったようです。

※字名…昔の中国の風習で、男子が原服(げんぷく…今でいう成人式。この頃は男性にしか行われなかった)の時に実名以外に付けた名前のこと。日本でもそれを真似て付けられていた。かつて中国では諱((いみな)本名のこと)を呼ぶとその人を霊的に操れる、支配できると考えられており、諱で呼びかけることは大変無礼なこととされていたため、代わりに“字名”が用意された。

(“千と千尋の神隠し”や“ゲド戦記”でも、真の名前を差し出したことによって操られたり支配されたりしていますね)

武四郎氏はたくさんの著作物を残しているのですが、雅名(がめい…ペンネーム)もたくさん使用していたようです。

晩年は、“馬角斎(ばかくさい)”なんていう茶目っ気のある雅名を好んで使用していたそうですよ。皮肉も込められていたようですが。

昔の人は名前がたくさんあってややこしかったでしょうね。

家は代々紀州藩の郷士(農村に古くから住みついていた武士及び武士の待遇を受けていた農民)で、庄屋(村落の長)を務めていました。

要するに、武四郎氏の生まれた松浦家は由緒ある家柄だったということです。

父桂介氏は茶道や俳句が好きな人であると同時に、義侠心に富んだ人柄で、暮らしに困っている人に救いの手を差し伸べたので、村人達に大変慕われていたそうです。

少年期の竹四郎

一方、元気が有り余っていた竹四郎氏。

よくいたずらをして土蔵(どぞう…土壁に漆喰(しっくい)を塗った作りの保管庫)に入れられ、父から「もういいから出てこい」と言われると、今度は竹四郎氏がどうにも出てこなくなってしまい、困り果てた母が実父に助けを求めたという出来事があったそうです。

その上、竹四郎氏は土蔵に積まれていた米俵にオシッコを引っ掛けた…なんていう逸話も残されています。

そんな竹四郎氏に手を焼いていた両親は、母登宇の実父の勧めで、7歳になった竹四郎氏を近所の曹洞宗海宝山真覚寺というお寺に預けることにしました。

真覚寺では、来応(らいおう)和尚から読み書き算盤を学び、やがて竹四郎氏は『名所図会(めいしょずえ)』に夢中になります。名所図会とは今でいう“観光ガイドブック”のようなもので、これを見ながら名所を一目見てみたいと旅への憧れを強くしたと言われています。また、この“名所図会”は、のちに武四郎氏が書く書籍の参考にもなります。

勉強もしながら川遊びや木登りをして元気に過ごしていた竹四郎氏でしたが、9歳の時に※疱瘡(ほうそう)にかかってしまいます。当時疱瘡は命に関わる恐ろしい病で、この頃は病気にかかるのは体内に悪霊が入ったからだと信じられており、来応和尚も武四郎氏のためにお経を上げてくれました。母の懸命な看病の甲斐もあって、竹四郎氏は無事治癒します。

※疱瘡…現在は“天然痘(てんねんとう)”と呼ばれている感染力の強い伝染病。“痘瘡(とうそう)”ともいう。名前が似ているが水疱瘡とは別もの。1980年5月にWHO(世界保健機関)より天然痘の世界根絶宣言が出され、現在自然界には天然痘ウイルスは存在しないといわれている。

また、12歳の時には、狐に取り憑かれた娘が和尚の元へ連れてこられ、和尚はお経を唱えて狐を払ったそうです。

そんな和尚の姿をそばで見ていた竹四郎氏は、和尚に憧れを抱き、口癖のように『お坊さんになりたい』と父に訴えましたが、父は竹四郎にはもっと勉学に励んでもらいたいと思っていたようで、僧侶になることを許すことはありませんでした。

おかげ参り

竹四郎が13歳の時に、“おかげ参り”なるものが起こりました。

“おかげ参り”とは、一言でいうと『集団伊勢神宮参り』のことです。

おかげ参りは当初『抜け参り』と呼ばれていて、お金のない人でも、職場に無断でも、子どもでも、ひしゃくを持って歩いていれば、沿道の人たちから施しをいただきながら旅をすることができたのだといいます。

この“文政のおかげ参り”は、現在では宝永二年(1705年)と明和八年(1771年)のおかげ参りとともにおかげ参りの大ブームの一つとして数えられており、その中でもこの“文政のおかげ参り”の動員数が一番多かったということです。

文政のおかげ参りは、四国の阿波(現在の徳島県)が発端だったと言われています。

この年の三月、阿波で小さな子ども達が複数人でどこかへ出掛けていくということが起こりました。困ったある両親が、6歳の子を柱に縛り付けておいたところ、いつのまにか抜け出していて、その代わりに伊勢神宮のお札が置かれていたというのです。

またある家では、8歳の子が行方不明になって大騒ぎしていると、フラッと帰ってきて『知らない人に白馬に乗せられて伊勢参りをしてきた。白馬は家の前に繋がれている』と言ったというのです。両親が外へ出ると、伊勢神宮のお札が垣根に結ばれていたということでした。

ここから、『これは神の思し召しだ』として、ひしゃくを持った人たちが次々に伊勢神宮へ向かい、噂が噂を読んで、夏にはその数は450万人を超えたと言われています。

実際には、伊勢神宮のお札を頒布する“御師(おんし/おし)”と呼ばれる人たちが、伊勢への道案内や、泊まる場所の世話などをしてくれていたのだそうです。

急に姿をくらまされた家の人や雇い人も、伊勢神宮のお札を見ると“伊勢の神様の思し召しだから御咎めなし”という暗黙の了解があったことで、何も言えなかったという話です。

(でも個人的には雇い人に怒られた人もたくさんいたと思っている)

竹四郎氏の家の前に伸びる伊勢街道は『参宮街道』と呼ばれ、数え切れないほどの人たちが伊勢へと向かう姿を目の当たりにした竹四郎氏も、父とともにその波に紛れて二度参拝し、神を信ずる大勢の人たちが織り成す熱気の渦に身震いしたということです。

おかげでさ

するりとさ

ぬけたとさ

人々はこんな唄を唄いながら伊勢へと向かっていったそうです。

竹四郎氏は、こうして遥々伊勢まで旅してきた人たちを見て、彼らの住む土地に思いを馳せ、ますます旅への思いを募らせていくのでした。

平松塾

おかげ参りと同じ年の11月、竹四郎氏は父の知人の伝手により、津にある平松楽斎(ひらまつ らくさい)の塾に入塾します。

楽斎氏は、学者としてもさることながら、大変な人格者でもあり、当時仕えていた津藩の第十代藩主 藤堂高兌(とうどう たかさわ)に対し、“藩主が真に民衆に心を配れば下の役人もそれにならって民衆に心を配るようになります。そして民衆も藩主を敬い、苦境に陥っても藩を恨むことはしないでしょう”と進言して、高兌氏から気に入られたということです。

高兌氏は歴代藩主の中でも名君と讃えられています。

高兌氏の死後に起きた6年以上にも及ぶ“天保の飢饉”の際には、藤堂藩は飢えに苦しむ領民に囲い米(備蓄米)を放出し、更に『もし飢餓者が出れば、庄屋ら村役人の責任である』というお触れまで出しました。

楽斎氏は、この飢饉の際に、食用となる植物や草の根などを紹介する“救荒雑記(きゅうこう ざっき)”を執筆し、野草と少量の米や麦を混ぜて作った粥(骨董粥)を、飢えたたくさんの人々に炊き出しました。

この救済のお陰で、三重県域では餓死者が少なかったと言われています。

そんな人格者である楽斎氏の元で、竹四郎氏は初めて“論語”を学びます。

論語とは、中国の思想家である“孔子”と、その弟子たちの問答を収録した儒教の経典のことです。

“論語”、“大学”、“中庸”、“孟子”を合わせて四書(ししょ)といい、これに“詩経”、“書経”、“礼記”、“易経”、“春秋”の五経(ごきょう)を合わせ四書五経(ししょごきょう)と呼ばれ、当時武士の子弟が必ず学ばなければならない書物でした。

竹四郎氏は、こういった学問を身につけることもさることながら、諸国の有名な学者達の話を聞いて見聞を広め、同時に大人とはどういうものかということも学んでいきます。

のちに“大塩平八郎の乱”で有名になる大塩中斎(平八郎)氏も平松塾を訪れていました。

人々が何十万人と飢え死にしてゆく中で、米の買い占めや売り渋りにより米価を釣り上げて私腹を肥やそうとする豪商や、飢饉対策を講じなかった町奉行所に対して反乱を起こした大塩氏です。

弱いものを助ける楽斎氏の人柄に共鳴して彼のもとを訪れたのでしょう。

また、平松学斎と親交のある足代弘訓(あじろ ひろのり)氏は、伊勢神宮外宮の禰宜(ねぎ…宮司を補佐する立場の神官)で、国学者でもあり、歌人でした。

さらに、山口遇所(やまぐち ぐうしょ)氏は江戸の漢学者で、腕の良い※篆刻家(てんこくか)でした。

竹四郎氏はこのすぐあとに少しの間この山口遇所宅で過ごすことになるのですが、その間に山口氏の篆刻の技術を見よう見まねで覚えてしまいます。

のちにこれが役立ち、旅先で篆刻をして日銭を稼いだり、人助けをしたりすることになります。

※篆刻とはハンコを彫ることで、篆刻印とは書道や絵画の作品や、書籍などにサインとして押される印のことを指す。かつてはハンコ用の書体である“篆書体”を刻むことから“篆刻”と呼ばれていたが、現代においては楷書体も行書体もひらがなもカタカナも含まれるため、印鑑を彫ることを総じて“篆刻”と呼んでいる。

父を筆頭に、彼の周りにいた大人達は、弱いものに手を差し伸べる“大人の見本”のような方ばかりでした。

もちろん彼もそういった大人の一人になっていくわけですが、幸か不幸か、このことが彼の人生を大きく左右する鍵となります。

このような沢山の文人の話を聞くにつけ、竹四郎氏は学問を学んで世に出るということがどういうことなのかを肌で感じるようになります。

“諸先生方のように自分の足で諸国を巡り、方々の地の名士と親交を深めたい”と、ますます旅への熱を上げていくのでした。

こうして竹四郎氏は、3年ほどお世話になった平松塾を突然無断で退塾して実家に戻ってしまいます。

このとき武四郎氏は16歳でした。

初旅

さて。

父の知人の伝手で入塾した平松塾を勝手に退塾して帰ってきた竹四郎氏。

当然の如く父からの雷が落ちます。

“平松塾に入塾すること自体が簡単ではないこと”

“そのために沢山の人たちが一肌脱いでくれたこと”

“お世話になった楽斎氏に対して無礼千万であること”

“そして何よりもこれからの時代を生きる武四郎にとって学問が間違いなく必要であるということ”

恐らく竹四郎氏にとっては、どれも言われるまでもなくわかっていたことばかりだったことでしょう。

父にどんなに叱られようとも、彼の目は、まだ見ぬ土地へと向けられていました。

竹四郎氏は秘密裏に着々と旅支度を進めていきます。

そして平松塾を退塾した翌月の1833年2月1日、竹四郎氏はこっそりと家から抜け出し、江戸へ向かうために津へと向かいました。

津から同じ村に住んでいた従兄弟に出した便りの内容が以下の通り。

・まず、京か江戸、大阪へ向かうこと(ゆくゆくは唐天竺まで)

・荷物を預かって欲しいこと

・飛脚代を掛軸代で払って欲しいこと(この便りを出すための郵便代を着払い扱いにしていて、その代金を用立てるために掛軸を売ってあるので、売り先から代金を受け取って飛脚(郵便屋さん)に払っておいてねという意味)

・その他の費用も家の着物を売って受け取ってほしいこと

・そしてこの手紙の内容は親には黙っていて欲しいこと

もちろん従兄弟は飛脚を受け取ってすぐに竹四郎の父桂介に報告に行くわけですが、父は竹四郎を勘当したり呼び戻したりはせず、『江戸に行くなら親戚のところを頼ってくれれば良いが』と、ただただ竹四郎の身を案じていたということです。

一方その頃、竹四郎氏はひたすら江戸へ向けて歩みを進めていました。津から江戸までの距離はおよそ百二里半(約410km)。天候や足止めなどを考慮しても15日もあれば江戸に着いたと推測されますが、竹四郎氏は10日には江戸に着いていました。

今の人には考えられないような距離を歩いて移動していきました。

江戸ではまず先述の山口遇所氏の元を訪ねて寄宿させてもらいます。ここで彼の篆刻の技を見て覚えたことは既に書きました。その後も山口氏の伝手で山口氏の養父の家にも寄宿させてもらうのですが、見知らぬ寄宿客がそうそう歓迎してもらるわけもなく、結局父が案じていた通り、江戸の親戚の家を頼っていくことになります。

竹四郎は宿代を稼ぐための仕事を世話して欲しいと親戚に申し出るのですが、村の名士の子息である竹四郎に、そうやすやすと仕事を紹介するというわけにもいかず、『職業紹介所に行ってみてはどうか』と持ちかけても、無断で出てきた武四郎に身元の保証書などあるはずもなく…。

身元の保証が取れない16歳が江戸で暮らすことは難しく、結局ここで武四郎が江戸に出てきたことが父に知れるところとなります。

そして家から“すぐに戻るように”との使いが出されるのですが、“どっちにしろ父に叱られるのだから”と、途中信濃の善光寺に参り、戸隠山や御獄山に登って山の霊気を身体に取り込み、しっかりと寄り道をして帰りました。

にも関わらず、わずか13日で伊勢の須川村に戻ったということです。

それにしても素晴らしい脚です。

諸国歴訪 “自分探しの旅“へ

江戸から戻った翌年の秋、17歳になった武四郎は、ついに念願の旅に出ます。

父も武四郎の強情さには勝てなかったようです。

そしてこの別れが今生の別れになることなど、この時の武四郎には知る由もありませんでした。

今回の旅の目的は“自分探し”。

平松塾で知り合った思想家・学者などを訪ね歩くことから始めました。

武四郎氏はまず京都へ向かい、儒者の“中島棕隠”氏、漢詩人の“仁科白谷”、画家の“中林竹洞”、“山本梅逸”らを訪ね、そこから大坂へ。

大坂では、“篠崎小竹”、“後藤松陰”らを訪ね、大塩平八郎にも会いにいきました。

あまり歓迎してくれない大家が多い中、大塩氏は武四郎氏に逗留(とうりゅう…旅先に滞在すること)を勧めてくれましたが、当の武四郎氏はこれを辞しています。

もしもここで大塩塾に逗留していたら、のちに起こる“大塩平八郎の乱”において、武四郎氏も大塩氏のように命を落としていたかも知れないと考えると、改めて人生とはわからないものです。

ここから、播摩国(兵庫県)、備前国(岡山県)、瀬戸内海を渡って“讃岐国(香川県)”、“阿波国(徳島県)”へ。そこから淡路島に渡り、“紀伊国(和歌山県)”で年を越します。

翌年那智山に登って熊野本宮大社を参拝しました。その後、玉置山に登ろうとするも修験道の掟によって登ることができず、高野山を訪ねます。

そこから河内国(大阪府)に入って観心寺を参拝し、和泉国(大阪府)、山城国(京都府)、摂津国(大阪府)、丹波国(兵庫県)、播磨国(兵庫県)、馬国(兵庫県)、丹後国(京都府)、若狭国(福井県)と巡りました。

敦賀から越後国(福井県)、を経て永平寺に参拝。大聖寺を訪ね、白山に登ろうとするも積雪があり途中で断念。

加賀国(石川県)に入ると能登国(石川県)の七尾を訪ね、石動山に登ります。更に、越中国(富山県)、飛騨国(岐阜県)を回り、下呂温泉にも浸かったそうです。

旅の途中で武四郎氏は“癪気(しゃっけ)”という病に倒れ、お堂に運ばれたのですが、その時にたまたま居合わせたサンカ(定住しない山の民)が食事の世話をしてくれたり、山から採ってきてくれた薬草のおかげで回復したそうです。

武四郎氏は後に、この時助けてくれたサンカを思い出すと涙が止まらなくなると記しています。

病から立ち直った武四郎氏は、その後も“美濃国(岐阜県)”、“三河国(愛媛県)”の鳳来寺、“信濃国(長野県)”、“甲斐国(山梨県)”の金峰山と巡り、奈良田から七面山、身延山に登り、富士山麓を歩いて郡内、八王子、川越を経由して江戸へと渡ります。

その後、日光(栃木県)、中禅寺湖、白川、仙台と巡り、松島を訪ねますが、天保の大飢饉を招いた異常気象により、8月下旬にも関わらず、山が雪で真っ白だったということです。

そこから海岸伝いに南下し、相馬(福島県)、水戸(茨城県)、香取(千葉県)、銚子(千葉県)を経て上総国(千葉県)の九十九里浜を訪ねて再度江戸(東京)に戻りました。

1835年(天保6年)夏、江戸では伝で水野越前守忠邦(みずのえちぜんのかみただくに)の屋敷に雇われることになるのですが、失敗をしてしまい、わずか4ヶ月で解雇されてしまいます。

途方にくれた武四郎氏は、真言宗の寺で髪を剃って修行僧となり、諸国遍路の旅に出ようと決意して年を越しました。

四国遍路と長崎での出家

天保七年(1836年)、武四郎氏は四国八十八箇所霊場巡り、通称“四国遍路”に臨みます。

鳴門坂東(徳島県)の一番札所“霊山寺”から始め、霊場から霊場へと経文を唱えながら歩きました。

この年は、数年に渡る冷害や長雨による洪水などで農産物が全く取れず、米価は高騰し、餓死者が続出するという悲惨な状況で、人々は平常心を失い、巷には強盗が溢れかえるような有様だったと武四郎氏の自伝に書き残されています。

飢餓により人がバタバタと死んでいくような状況下において、米を買い占めて米の値段を釣り上げ、私服を肥やす豪商がたくさんいました。そしてまさにこの時期に起こったのが先述の“大塩平八郎の乱(天保8年2月19日)”でした。

武四郎氏は3月2日に長崎の宿泊先で大塩の乱のことを耳にします。

9月には肥後国都留(熊本県)で盗賊に遭ってしまいますが、武四郎氏は“この度の飢饉により仕方なしに盗賊をやっているのだ”と、盗賊に対する同情のような思いを自伝に記しています。

翌年天保9年、武四郎氏は長崎で禅林寺(臨済宗)の謙堂和尚のすすめで出家を決意、名前を「文桂(ぶんけい)」と改めました。

※参考資料

幕末の探検家 松浦武四郎 入門 (著者:山本命)

炎の旅人 松浦武四郎の生涯(著者:本間寛治)

次回へ続く▷

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